車椅子のゆらぎ

 「もう少しで開放骨折だったね。手術しましょうか」と医者に言われたのは、もう2週間も前のことだ。足首が180度回転して入院した。すごいスピードで軽くコケたら、足が人とは思われない方向を向いていた。それを見て俺は「ゆっくり生きよう」と思った。
 手術後1週間の入院を経て家に戻ったが、出社はおろか外出も難しく、自室で思いわずらうことが多かった。こういう怪我をするのは決まって生活が何かしらの具体性を持って動き始めた時で、出鼻を挫かれるのは人の常なんだろうけど、その度に俺は掴みかけた具体性が、果たしてどれほど重要なのかと悩んだりしてしまう。

 「どっちにするの」と自分によく尋ねる。
 去年も俺は大怪我をして、その時はもう仕事とか命とか、名前のあるものは何も望むまいと思った。薬もそうだった。薬が切れるあの寒さ。それを避ける為に俺は、やたらと入り口の大きい暖かい部屋に入った。それでも何か間違っているんじゃないかとか思って、その部屋を出た。出たり入ったり、出たり入ったり。そうして俺はまた出てきた。少し寒いけれど、また出てきたのだ。

 ところで俺の隣人は片足が無い。今日それに気付いて車椅子を借りてきた。車輪に揺られて1週間ぶりに外に出る。普段は意識しないけれど、歩道の端はなだらかなスロープになっていて、車椅子で通るには結構気を使う。地面をよく見なければならない。蝉の死骸がたくさんあって「こんなに死んだんだ」と思った。
 河川の橋を渡っていた。俺は車椅子を止めて、水でも飲んでやろうと思った。川面が太陽のすさまじい反射をあげ、俺は両手で顔を覆ってしまった。これなのだ。俺の行動なんて川面の反射と変わらない。ある場所で光っては消え光っては消え。ずっと明るかったり、ずっと暗かったりということができない。俺はただそういうふうに価値を決めればいい。死ぬまで揺れて、そのゆらぎが俺の音楽になる。明滅。俺はそのために車椅子を漕ぎ続ける。
 いつだったか、俺は異国のパーキングロットにボサっと立って、遠くの山を見ていた。家々のポーチライトが山の稜線を成しており、朝日で空が白む数分のしじまをその光が明滅し、山は輪郭を失っていった。俺はそれを綺麗だと思った。そんなことを思い出した。