同じ月を見ている

 会社のデスクでコーヒーを飲んでいると「いいのかな」と思うことがある。
 今こんなふうにコーヒーを飲んでるけど、俺は数ヶ月前まで大怪我で入院をしていて、その前は不眠の無職で、更にその前は阪神間トランキライザーに溺れていた。こんな何もかも忘れたように過ごしてていいんだろうか。こんな普通らしい暮らしは実はすごく異常で、気付けばよく知っている普通の異常に戻ってしまうんじゃないか。このギャップは自分にとって、余りにも有り余る気がして。
 そんなことを考える度に俺は、両手で顔を覆ってデスクに肘をついてしまう。

「月島さん、電話です」と言われて受話器を取る。客先からの原稿指示だった。

「...ええ、分かりました。その変更をここに反映させると、パターンとしては4つに分岐するイメージでしょうか」
「違います」
違うのか。
「むしろ分岐をまとめて、内容をコンパクトにするイメージです」
「かしこまりました。確認後、またご連絡致します」

電話を切った後の、妙に気のおかしくなりそうな静けさ。


 帰りのメトロに揺られて思ったのは、そういえばここ数年の自分には、たった半年でも生活が落ち着いた時期があっただろうかということである。日記のログを辿ると、俺は去年の8月に退院していた。そこから車椅子や松葉杖が不要になるまで2ヶ月。更にそこから半年経って、ちょうど現在に至る。今がそういう時期なのかもしれなかった。

 別に忘れたわけではない。過去にあった悲しかったこと、美しいと思った光景。俺はそれらをここ1年くらいの間に、ずいぶん人と共有してきた。ただ一時期の俺というのは、人と共有しない、固有の感情を持つことが唯一のリアルになっていた。それ程までに俺は孤独だった。

 先々週末、俺の孤独に関する人とドライブをした。俺が車を運転している間、彼女はカーステレオを操作してくれた。おととい買ったCDを聴きながら京葉道路に入る。館山自動車道を経由して、サービスエリアでコーヒーを買ったりしながら木更津ICを左に逸れる。そうすると視界は海と一本道だけになる。これはアクアラインといって、木更津から川崎へのショートカットになっている。その途中に海ほたるという休憩所があり、そこで車を降りた。
 海ほたるの一番すみっこの窓辺に二人して腰掛けて、海を眺めていた。彼女はメモ帳に海の絵を描きながら眠たげに、俺は窓ガラスに反射する背後の往来をぼんやりと。
 車を降りてから5時間以上が経っていた。外の空気が昼の名残を失い、乗用車のビームがハイウェイを流れ始めた頃、海を隔てた川崎の石油コンビナートに灯りがともった。それは、どこかで見覚えのある光だった。その光についてはこの日記でたくさん書いてきたから、もう書かない。俺は嬉しくなって「忘れてないよ」と声も出なかった。

 来月にはまた足の手術があるし、車のアクセルだってきっと踏めなくなってしまう。その後間もなく俺は引っ越しをする予定で、生活だってもっとずっと忙しくなる。そうなったらどうせ俺は「またここからかよ」と嘆いたりするんだろうな、と笑ったりしながら、腹の中で原子プラントのように燃える記憶が、口元から染み出しているような感覚に襲われて、こぼれないように上を向いたら爪みたいな月が浮かんでいた。