ゆっこ、最後の会話

ハードオフ大和田店から日野にある社員寮に帰宅した俺は、当時少し好きで仲良くなった子と食堂の前でばったり会った。「久しぶりだね」「夕ご飯おいしかったね」なんて普通の会話が、明日には死んでいるという確信に満ちていた自分には妙にさみしく思えて、やや長めに話した。それじゃあね、と言い合って別れた後、背後から「もう終わりですか?」という女性の声が聞こえた。振り返ってみたけれど、そこには誰もいなかった。

20241013のメモ

 ノイズキャンセリングのイヤホンを、何も音楽をかけずに耳に付けることが多くなった。鼓膜が破れたような感覚に居心地の良さを感じる。
 俺は日々の仕事の精神的なプレッシャーや長時間労働にやられていて、仕事を連日休んでいる。
 昼下がりの小さな公園で、缶のバドワイザーを飲みながらブランコに座った。周りには妻以外に誰もいない。煙草に火をつけたものの、ほとんど口に運ばず煙があがるのを眺めていた。
 赤いてんとう虫が俺の足の上を通過しようとしていて、それを手に取って自分の目線まで連れてきた。てんとう虫は俺の脱力した人差し指の先まで登り終えると、羽を開いて、日差しと木陰の合間を明滅しながら、少し先に生えてる薔薇の葉まで飛んでいった。
 その瞬間、空気の穏やかさと全ては生々しく生きているということ、自分が過去に虫をたくさん殺したこと、兄が(ただ虫を殺すように)自分へ行使してきた暴力による支配のことなどが次々と、鮮やかに思い出され、また全ては繋がっていて自分のせいなのではないかという罪悪感、これを正確に誰かへ伝えることのできない自己認識の低さと孤立感に押し潰され、考えが止まらなくなり、信じられないほど泣いた。こんなことは初めてだった。
 公園の水道で顔を洗って、友人とたちと会って、家に帰って明け方に眠った。起きたら正午だった。

忘れてもいいよ

両国駅西口のマクドナルド2階席から、2人がけのテーブルに座って外の景色を眺めていた。向かいの席には誰もおらず、テーブルの上のファンタグレープはもうただの氷水になっている。外では2月の低い日差しが正午の路面をきらきらに照らしていて、交差点の往来にはアウターの前ボタンを外している人も見られた。土曜日なのに、心なしか人通りはまばらである。

向かいの席に音もなく人が座ってきた。

「こんにちは」

窓から視線を戻すと、O君だった。

「本当にすみません、遅れちゃって」

彼はジャンパーのポケットに手を突っ込みながら申し訳なさそうに笑っている。ツバのついたグレーのニット帽が、鼻筋の通った顔によく似合っている。

「いいよ、仕事だし仕方ない。お疲れさま」俺は目を閉じて笑う。

「実は後ろに座って探してたんですよ、月島っちを」彼がいたずらっぽい表情になる。

「えっ、そうだったの」

「最初女の人かと思って、でもそれらしい人がいなくて。あ、これ月島っちかって」

「ああ 俺、髪伸びたからね。こんな体格の女性も少ないでしょうが」

そんな話し出しでお互いの近況を伝え合う。

「今日はバイクじゃなかったんだね」俺は思い出したように彼に尋ねた。

「今日は電車で来ました。職場から一回家に戻って」彼はちょっとすまなそうな顔で言う。

「そうだったんだ。時間あったからさ、ここ来る前に施設まで行ってきたんだけど、どうやら入替え制みたいで、次は12時半から入れるって。あと30分はこうしていられるよ」

「いやー...本当に遅れてすみません」

O君とは、午前中にプールに入る予定だった。プールから上がったらご飯でも食べて散歩をしようという話をしていたけれど、結局予定を後ろ倒しすることにした。

12時半を少し過ぎたあたりでマクドナルドを一緒に出て、駅前の喫煙所で一服つけていた。

「...だから、彼女はそこで『自分の本当に好きなものって、実は自分が卑下してきたものだったんだ』って気付いたんだよね」

俺が一方的に自分の最愛の人に関することを喋っている。

「...だって彼女はYoutuberとか配信アプリとかたくさん見るのに、いざ自分がそういうことをやってみたら『こんな何も生まないことしてていいのかな』って悩むんだもの」

話が時々脱線しつつも、O君はずっとこちらを見て話を聞いてくれている。

「...それで『じゃあいつも見てるあの配信者とかこのYoutuberとか、見下してるの?』って聞いたら『正直見下してる』って。俺びっくりして『本当に好きなものってなんだろうね?』って話し合ったの」

「あー、そういう流れですか」彼は納得したように空を少し見上げた。

「うん。彼女は映画とか文学とか音楽とか、特にハイコンテクストなものを好きで在りたい、そういうものを創れる人間で在りたい、という願望がすごく強くて。自分に強いる形でそちら側に意識を向けているところは大きかったみたい」

俺の話に彼は相槌を打ちながら「2本目いいですか」と新しいたばこを取り出したので、俺は「いいよ」と言って更に続ける。

「彼女が中学生時代に、不登校の自分が勉強以外で自分に価値を認められるものって、サブカルというステージでの創造性以外に無いと考えたのが発端なんだけどね。その反動で、彼女自身が当時『クリエイティブじゃない』と判断してた配信とかのポップカルチャー的なものについては、本心では好きであっても後ろめたさを感じたり、見下したりしていたという」

「うーん」彼が煙を吐きながら唸る。

「そう、うーん。だから彼女が実は自分の本当の嗜好は、サブカルチャーというよりはポップカルチャーに向いていることを認めた時に『今までの自分ってなんだったんだろう』って言い始めちゃって。でも俺は『ここから始まるんだよ』って思ったし、そう言った」

俺は途中から興奮気味だったのが恥ずかしくなって、灰皿にたばこを押し込んで誤魔化しつつ彼の反応を伺った。

「彼女が最近すごく活動的になっているのは、そういうことなんですね」彼が頷く。

O君と俺は、彼女が間に入って知り合った友達だった。

「持病のせいもあるけど、そういうことです」

俺がそう言い終えたあたりで、ようやく喫煙所を出て市民プールに向かって歩き始めた。

 

プール施設は駅から歩いて10分くらいのところにある。
両国国技館の裏あたりを歩いている時、電柱の影って爆撃機みたいで面白いなと考えながら俺は

「俺さ、何か1つのものをずっと好きなんだよね」

と彼に言った。たぶんさっきの話と繋がっている。

彼は少し悩んでから「自分も割とそうかもしれません」と言った。
彼は一緒に歩いている時いつも、肩がぶつかりそうなほど近づいてくる。俺はそれがスリリングで結構好きだ。

「O君もそうかー。俺ね、19歳の頃からずっとAphex Twinを聴いてる。聴くたびに毎回新鮮な気持ちで感動してる」俺はもう31歳だった。

「自分はそこまでずっと好きなやつは無いかもしれないですね。せいぜい4-5年とか。あとは、ある時期・特定の環境にいる時にだけ聴くみたいな、通勤の時にしか聴かない曲とかもありますよね」

それを聞いて俺は、そういうのあるよね、とはしゃぎながら

「でも音楽だけじゃなくて漫画とか映画とかも、結局ここに帰ってくる、みたいのが結構あってさ。で、そういう作品を見返した時のこころの揺れを味わう度に『この世にいてよかったかも』って思う」

と言うと、なるほどですね、と彼は少し間を置いて

「生きてる理由で言えば、俺は子どもの頃のまなざしというか、そういう視点に戻ることが年に1-2回あって。いや、もっと少ないか」

と切り出した。
大切な話をしているような気がした。プール施設の敷地付近まで来ていた。

「それ、どういうこと?」俺は興味津々で訊いてしまった。

「なんて言えばいんだろ、邪念なく見るものを捉えることができる瞬間があるんですよね。感覚的なことなんだけど、伝わるかな、そいういう。あるがままというか」

「ピュアになれるんだ」

「うん、そう。だんだんそういう感覚になる瞬間が減ってきてるんだけど。でもそれが来た時は、S(O君の彼女)とかに言うんですよね。『ああ、やばい今!きてる!』って」

俺は、笑ってしまった。でも大事な話だから「ごめん、なんかウケちゃった、それで?」と続きを聞いた。

「俺忘れちゃうから、憶えておいてほしくて言うんですよね。誰かに憶えておいてほしくて。俺の人生というか、生きてるのって、その瞬間をずっと待ってる感じ」

「...O君、それってすごい話かも。いやすごい話だよ」

この話たぶんずっと忘れない、と伝えると彼は「ほんとっすか?」と笑っていた。


施設に着いて更衣室で水着になったとき、彼に「月島っちはすごいよね」と言われた。体つきの話である。

「そうね、運動すきだからね」俺は少し恥ずかしくて猫背になった。

「俺ぜんぜんそんなふうにはならないや、特に胸」

「でもO君は腕がすごく太いよ」

そう言うと彼はうれしそうにして、設置してある鏡で何度か自分の腕を見ていた。職業柄、腕が発達しやすいと思われる。
腕の太さに対して彼の胴体はたしかに骨ばっていて、特に胸骨に関しては、突き出した鎖骨や薄く割れた腹筋に対して少し沈んでいる。それでも目線は俺とほぼ同じで長身なので、不思議な迫力がある。水着姿の彼を見て俺は、彼が服を着た時のボディと布の距離はどんな関係だろうと想像した。それと同時に、うつくしい身体だなと俺は思った。

暖かいシャワーに少し振られて、プールサイドに出てすぐ、俺たち二人はガタガタに震えていた。

「これ寒すぎて無理かもしれない」と彼。

「そうだね、プールがあったかくなかったら今日はダメかも」

そんな会話をしながら祈るようにプールに入ると、水はあたたかかった。
一昨年彼とプールに来た時、彼は「水ってなんかいいですよね」と言ってきた。うん、なんかいいよね、わかるよ、そんなふうにして俺たちは徐々に仲良くなった。

結局1時間ほど泳いで「もう十分だよね」とニヤニヤし合ってプールから出た。シャワー室の雰囲気になぜか二人してゲラゲラ笑って、着替えたあと施設を出た。駅前のサイゼリヤで遅い昼食をとり、その後も隅田川沿いを地図も見ずに歩き続けて、知らない公園を見つけてはブランコに座ったりしてずっと喋っていた。両国駅に戻った時にはもう凍えるような夜で、体の芯まで冷え切っていた。駅改札をくぐってホームに続くエスカレーター前で彼と別れた後、俺は自販機横のエアポケットみたいな場所から、ボロボロのiPhone7で電話をかけた。
子どもの頃の眼差しが綿毛のように空気を漂い、それが彼の胸のくぼみを見つけて偶然収まり、彼が「今!きてる!」とうれしそうにしている光景のようなものを想像しながら、電話の呼び出し音を聞いていた。

朝が好きだった

無職からようやく漕ぎ着けたバイトの初日に寝坊して「あんた終わりだよ」と母親に吐き捨てられた朝、胸中で「仕方ないじゃん、うまく眠れなくて、飲んだらいけない量の薬隠れて飲んでんだよ」と絶叫したまま、俺は幸せがほしくてほしくてたまらなかった。

コーヒーだけ注いで、底が浅いからこぼしながら 紙コップ持って向かった薬局の途中の妙に名残惜しい 公団のにぎわい

天気予報

「あのメガネの人が」
そう聞こえて視線を上げると、若い女性が俺を指差しながら物件担当者に話しかけていた。
「あのメガネの人が立ってるところにゴルフバッグを置きたいんです」

 この仕事を担当して、2年が経った。今俺は高級物件向けのとあるサービスに関する運用保守をやっている。普段は在宅ワークだが、週一くらいでこのサービスが導入されたモデルルームに赴いて、住宅機材の調整を行っている。モデルルームでは俺一人の作業が多いのだが、稀に内覧者案内に居合わせることがあり、ごく稀に「あのメガネの人」と内覧者に指差されることがある。

 先日も突発で作業を依頼され、都心の一等地にある集合住宅のモデルルームに伺った。
 節電のため内覧以外ではクーラーが使えず、作業が終わる頃には汗だくだった。俺はリビングの丈夫そうなテーブルの上にパソコンを置き、針金みたいなスツールに腰掛けて水を飲んでいた。同じテーブルの上には、絶対に腐らない偽物の果物が盛られている。周りを見渡すと高級家具や生活を繕った品々が綺麗に並べられていて、ミニマルなサイドテーブルには用途不明の岩塩が鎮座しており、クイーンサイズのベッドには銀のトレーに乗った未開封のシメイが用意され、革張りのソファには同じ英単語が羅列された架空の雑誌が故意に広げられていた。
「偽りまみれがよ」
と、自分の小声が空間にこだまして驚いた。

 モデルルームを去っても外は暑く、汗でシャツが胸に張り付いた。ジーンズやブーツで熱の逃げ場もなく、朦朧とした意識でよくやく帰りの電車に乗った。
 電車に揺られながら俺は、今まで自分が住んできた家々のことを思い返していた。あのモデルルームのような華やかさは無いが、少なくともすべてが現実だった。前住んでいたアパートでは女の子と一緒に暮らしている期間があって、生活に必要な家具や家電が部屋に増えていった(結局彼女とは別れてしまった)。その前は実家に住んでいた。見慣れた冷蔵庫に見慣れた机、そして見慣れた家族。つらいこともあったが、そこは俺にとって安心できる場所だった。
 「その前は」と遡って、また思い出す。この時期はいつもだ。

 塚口のアパートに住んでいた時、購入した家具家電は炊飯器だけだった。これは不眠で仕事を休んだ日の午後に、自転車で梅田まで買いに出かけたものだった。
 その日は夏日であるとニュースが伝えていた。
 汗だくになりながら、公園を見つけては水を飲みつつペダルを漕ぎ続けた。ようやく到着した梅田のヨドバシカメラで、悩みに悩んで1.5合炊きの安物を買った。店外へ出る頃には陽が沈みかけていたが、蒸し暑さはむしろ出掛けた時よりも増していたと記憶している。
 二日眠れていなかったからか、帰りは限界に近かった。梅田を出てすぐ、十三へつながる十三大橋の上で足が動かなくなった。自転車から降りて、橋の下を流れる淀川を見下ろして「はやく楽になりたい」と考えていた。俺はジーンズのバックポケットに入れていたお茶パックを2つ掴み、それを口に入れて十三方面に視線を戻した。橋が、果てしない長さに見えた。
 その頃の俺はお茶パックに煙草の葉と塩を詰めて、口の中でガムみたいにして噛んでいた。喫煙するより何倍も強烈な充足感があった。誤飲したら只事で済む筈がなく、でもその時そんなことはどうでも良くて、ただ目の前に広がるオレンジ色の空とか、車輪が回って自分が前に進むこととか、煙草畑で陽を浴びるタバコの葉の青色なんかを想像していて、それで十分だと思っていた。
 まどろみと夕闇の中、十三大橋の上で俺は、もうすぐ自分が死んでしまうことを考えていた。自転車のカゴにはさっき買った小さな炊飯器がおさまっていたけれど、それが煙をあげる瞬間はきっと見届けられないと思っていた。
 日没の光景を、ずっと覚えている。ずいぶん時間をかけて橋を渡り、十三駅のガード下あたりをペダルを漕ぐでもなく、足でケンケンして移動していた。足が地面を蹴るジッという音、とそれに合わせて不安定に光る自転車のダイナモ、に照らされる下校途中の中学生たち、を眠るように見つめるカートを引いたおばあさん、の横を走るきらきらの靴の子ども。

 2018年の初夏、「もう終わりにしようよ」と自転車から転げ落ち、顎から血を流して呆然とする俺の姿を、往来の誰もが見ていた。

 今日で塚口を去って4年が経つ。
 今日もテレ東で大阪の天気予報を見ていた。