フリッパーは今夜も

 ビデオゲームをほとんどやったことがない。小学生の頃はそれのせいで交友に苦労したこともあったが、今は何とも思わない。というのは嘘で、アーケードゲーム黄金期に馴染めなかった劣等感は、やはり大きかった。ティーンを過ぎた現在でも、ゲームは人のプレイを横から見ているだけである。それだけでも楽しいのだから、これでいいのだと納得している。
 こんな俺でも、一度だけ狂ったようにゲームセンターへ通った時期がある。2015年、俺は神田タイトーにあるジュラシックパークピンボールに夢中だった。

「まっすぐ歩けないよ」
「散歩はよそうか」
「だったら、車」
危険運転だ」
「駅前のタイトーにさ、湾岸ミッドナイトが置いてあるんだよね」

 神田のバーで、友人と大酒を飲んだ帰りのことだった。友人の提案は悪くなかった。終電までは時間があったから、ゲーセンで酔いを覚まそうということだった。俺はプラットホーム上の人間スプリンクラーを、プリミティブなテロリストだと考えている。その点タイトーは、UFOキャッチャーの景品袋にでも吐いてしまえば無害だと思っていた。夏も終わりかけのミルクのような風が、神田駅東口のガード下を寄る辺もなく往来していた。
 タイトーステーションではネルシャツを着たナードたちが、無言で筐体のボタンを連打していた。友人は景品袋を片手にシフトレバーを引き、ハンドルをあちこちに切っていた。カーブの度に事故を起こす、酷いプレイだった。対戦相手も同じ大学生だったらしく、随分アツくなっているようだった。同族嫌悪。俺は自販機でペプシを買い「クールアズコークだよ」と言って友人を冷やかした。
 ふと周囲を見渡すと、不自然にうら寂しいレンジが目にとまる。ピンボールコーナー。繁華な店内のそこだけ照明が届かず、深海の蝋燭みたいに筐体が稼働していた。俺は感傷癖の強い人間だから、そのレンジに強く惹かれた。
 筐体はスーパーマリオ、アダムスファミリー、ジュラシックパークの3台のみだった。スーパーマリオは幼児向けの小さなマシン。アダムスファミリーとジュラシックパークは、全長1.5mほどの大きなマシン。この2台は構造が似ていて、おそらく同じメーカーかと思われた(※)。3台ともプレイしてみたが、ジュラシックパークにはピンとくるものがあった。ちょうど両替機に紙幣を入れた時、友人が「胃が馬鹿になった」と言って、パンパンになった景品袋を掲げた。大笑いしてそれをトイレに流すと、俺たちは店を出て「お開きにしよう」と手を振り合った。家に帰っても、そのピンボール台が頭から離れなかったのだ。2015年9月、俺はピンボールのために夜も眠れなかった。
 翌日、大学を終えるや御茶ノ水から神田まで歩いて、タイトーステーションに立ち寄った。ジュラシックパークピンボールが昨夜と変わらずに稼働していた。俺は5千円札をすべて100円玉に両替して、取り憑かれるようにフリッパーボタンを押した。
 ジュラシックパークの優れた点は、何と言っても3つのフリッパーと可愛らしい恐竜のギミックにあった。サードフリッパーはステージ右上に位置し、下部のフリッパーボタンと連動している。サードフリッパーでボールをうまく弾くと、ステージ左上の浅い窪みにホールインする。窪みにはセンサーが付いていて、ボールを検知すると盤上の恐竜が首を傾け、そのボールをパクリと咥える。そのまま恐竜は首を持ち上げ「カチャン、カチャン」と咀嚼した後に、ボールを飲み込む。すると、赤色LEDのチープなディスプレイに"TRI-BALL"と表示され、射出口から鉄球が3つ飛び出す。ステージはお祭り騒ぎだ。スリングショットがボールを弾き、ジェットバンパーの間隙でダンスする。フリッパーで打ったボールが別のボールと衝突し、一方はレーンを高速で走る、もう一方はキッカーに吹っ飛ばされる。スコアはミリオン単位で跳ね上がった。切ないほど刺激的だった。
 それから一ヶ月間、俺はほぼ毎日神田に通った。都内でジュラシックパークピンボールが置いてある店は、神田のタイトーだけだった。湯水のように硬貨を投入し、プレイごとに様々なトリックを学んだ。デフレクトパス、ストップショット、フリッパーバウンス、ホールド&ショット、リターンレーン。最初は1億点だったスコアも、2週間目には5億点を超えるようになった。しかしそれ以降、スコアは伸び悩んだ。ハイスコアである13億点を突破したら、ピンボールを辞めるつもりだった。
 ピンボールには、必ずボールを損なうケースが2つある。1つ目は、ボールがステージのど真ん中を垂直に落ちるパターンだ。フリッパーを最大に開いても、その間隙はボール径に及ばない。だからこの場合、フリッパーを開き切ってもボールに届かず、フォールアウトする。2つ目は、ステージ左右に設置されたアウトレーンにボールが落ちるパターンだ。これはもう、否応なしにアウトである。プレイ3週間目に気付いたことは、ボール軌道の確率分布的に、ハイスコアの突破は不可能だということだった。何か確率を超えた技がない限り、絶対にボールは落ちる。プレイ4週目、死人のような目でボールを弾く俺の背後に、初めての「待ち人」が現れる。
 その男は大柄の中年で、ジムビームと硬貨だけを持ってスコアボードを凝視していた。俺が5億点でゲームセットして台を譲ると「どうも」と言ってプランジャーを握った。他人のプレイを見るのは初めてだった。男は、3億点までは俺と同じゲームをしていた。4億点を超える時、男が行動を起こした。ボールがアウトレーンに落ちる時だった。その瞬間、男は強靭な腰と腕で「かくん」と筐体を揺らしたのである。その揺れでわずかに軌道を変えたボールは、アウトレーンのエッジに衝突し、フォールアウトを逃れた。俺は感動を通り越した不思議な失望を感じた。けんもほろろ、完全なる畜生だと思った。男のプレイスキルとプレイスタンスが、ファックそのものであった。その後も男はマシンとのファックに勤しみ、スコアはノーミスで10億点を突破したが、もはやポルノシネマを見ている心地だった。
 ハイスコア更新の瞬間を見ること無く、俺はタイトーを飛び出した。悔しかったのだろうか。違う。ポルノが嫌いだったか。そうじゃない。ピンボールに絶望したのか。少し違う。つまるところ「時代が違う」と感じたのだ。俺の感傷は結局、ピンボールを単なる昔の装置として2015年より愛を込めていた。装置があれば現代でも可能だと、強く信じていた。装置の舞台が悪かった。2015年のゲームセンターでは、灰皿が飛んだり、台パンをしたり、カツアゲをしたり、ジョイスティックのボールをパクったり、順番待ちのコインを並べたり、掲示板に落書きをしたりしないのだ。平和な時代の、平和な場所となりつつある。そんな舞台でマシンとファックしても、観客は誰もいないのだ。そんなところに、俺は立っていたのだ。後に知ったことだが、男のプレイはその昔「ナッシング」と呼ばれ黙認されたトリックだった。現代では実に皮肉の効いたジョークだ。感傷では救えないものがある。ピンボールはその一例だ。そう思った。だから店を飛び出した。永遠のゲームセット。同年10月のことだった。
 タイトーを出て御茶ノ水へ戻り、脚が他人のものと感じるまで神田川を西へ歩いた。
 面影橋のあたりまで来ていた。手近にあった自販機でコーラを買い、電話ボックスにもたれかかって、ぐびぐびとそれを飲んだ。「ファック、ファック」と口遊んでみる。嘘みたいに笑いが込み上げてきた。初秋も過ぎた夜が妙に痛々しく、頭はキュウリのように冴えていた。

 

※ 調べたところ、この2台は別のメーカー品だった。アダムスファミリーは米バリー社が92年に発表した悲劇の名機である。製造台数は業界No.1で、その優れたゲームバランスとギミックから「近代ピンボールの金字塔」と呼ばれた。ジュラシックパークは、日本データイースト社がその名機を元に製造した93年製の筐体である。92年以降のピンボール台は、軒並み「アダムスファミリーの劣化コピー版」と評された。悲しいことに、ここからバリー社を含む業界全体の迷走が始まり、ピンボールは衰退していく。バリー社は、自社が製造したマシンによって破滅したのであった。