スカーレット

 都内の喫茶店で働いていた頃、モノ覚えの悪い俺に良くしてくれた先輩がいた。Aさん。とても博識だが、怒りやすく、その対比が絶妙に人を惹きつける特殊な方だった。Aさんは極道の息子だったが、どうやら後を継ぐ気は無いらしく、学生の身で起業までしていた。

「まだ会社が赤字だから、ここで働いてるわけよ」

 とAさん。

「俺も就活近いんで、雇って下さいよ」
「月島ちゃんは仕事できねぇから無理だな」

 そんなことを、半畳に満たない休憩室で、タバコの煙をぶつけ合いながら話していた。不意に扉がノックされる。

「大丈夫だよ」

 Aさんがそう言うと、同じくアルバイトのKさんが扉を開けて入ってきた。

「お疲れ様です」
「お疲れ。Kさん上がり?」
「はい。着替えるので、あっち向いててもらえますか」

 Kさんはそう言いながら、すでに制服の第二ボタンまではずしていた。この喫茶店では、半畳以下の休憩室が更衣室も兼ねていたいた。女性のKさんが着替えるためには、通常男どもは外へ出なければならないが、Kさんは見られていないという体裁があればオッケーな人だった。物騒な話である。背後で衣摺れの生っぽい音がする。

「月島ちゃん、今日何日だ?」
「忘れました」
「カレンダーは俺らの後ろにあるわけだ」
「ええ」
「カレンダーは振り向かないと確認できないよな」
「おーん」
「仕方ないと思わないか」
「やめたほうがいいですよ」

 そうしてAさんは、よくKさんにちょっかいを出した。それが原因でしばしば店長が怒った。どさくさ紛れにAさんもキレた。Kさんはまんざらでもなさそうだったが、時には激昂した。それでも店が回っていたのは、仕事というホメオスタシスの賜物だと思う。実に危険な職場だった。
 俺が仕事を覚えて店締めを担当するようになった頃、閉店後の休憩室でAさんが目を輝かせて俺に尋ねた。

「それ、月島ちゃんが巻いたの?」
「そうですよ」

 その頃の俺はハンドロールのタバコが気に入っていて、家で巻いてはポッケに入れていた。それを吸っている時だった。

「すごいな。そこまで綺麗に巻ける奴、初めて見たわ」
「そうですか。ありがとうございます」
「それ以外もやるの?」

 それ以外とは?と、少し嫌な予感がした。

「ああ、ピースも好きですよ」

 そう答えると、Aさんの目つきは鋭くなった。

「違うよ、クサ巻くのかって訊いてんだよ」

 嫌な予感が的中した。Aさんの私生活の話を聞く上で予想はしていたが、彼はプッシャーを始めたようだった。いよいよそれを職場に持ち込んできたのだ。

「巻けないっすよ。別に反対じゃないですが、それはちょっと、なんつーか、チキってるんで、一応ダメだし、やらない主義というか」

 まるで未成年が飲酒を断る時のセリフだ。要するにAさんは、赤信号くらい一緒に渡ろうぜと言っているのだ。俺はその一歩を踏み出さない奴だった。

「そう?まあクソネタは押さないから、Kさんや店長も買ってくれてるよ。革靴のつま先に入ってるけど、どうだろう?」

 冷や汗が出た。レスポンスの最適解が分からなかった。何より驚いたのは、自分以外の人がもう踏み越えていることだった。ブラフだ。そう思った。プッシャーは仲間意識を餌にして、新規客を釣るのだ。Aさんはケタケタ笑いながら言った。

「Kさん下手でさ、巻けないから市販のほじって詰めてんの。まあ、賢いよ」

 見るな。しかし目は動いてしまう。灰皿の上にセーラムの吸い殻が置いてあった。つい目を凝らしてしまう。もみ消してどす黒くなった火元から、黄緑色のカケラがはみ出していた。吸口にはKさんの口紅のスカーレットがついていた。なんらの希望もなかった。

「俺には理解があります。別にシャブ売ろうってんじゃないし。でも、今やったら緊張でバッドになるでしょう?アムスで会いましょう」

 なんとかやり過ごした。Aさんは普通の態度を装っていたが、明らかにキレていた。店の看板のコンセントを蹴飛ばして抜いていた。ブレーカーのスイッチを殴って切っていた。防火扉を力ずくで締めて「あー」と絶叫していた。
 俺はそれきり喫茶店には行かなかった。
 Aさんは博識だったが、パニクってたのだと思う。立ち行かない自分の会社、頼れない両親、守るべき人を守る大義、それ以外の人を淘汰する勇気、やめられないお酒、終わらない自虐、いくつも、いくつも。けれど、こんなのってないだろと思った。バグった頭だからこそ、人はパンクスを忘れてはならないのだ。
 今でもあの喫茶店の最寄り駅を通ると、心臓が高鳴る。たまに、Aさんが俺の住所を突き止めて「てめぇタレ込んだな」と殺しにくる夢を見る。もう5年も前のことなのに。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件等には、一切関係ありません。

潮風

 高校では帰宅部だった。入学式の日に友人から弓道部に誘われたが、指が痛そうだったから断った。学校が終わると家に帰って、散歩して眠る生活が2年半くらい続いた。
 高3の秋に教習所へ通った。自転車通学や散歩はもうたくさんで、別の足が欲しいと思っていた。免許を取った翌日は嬉しくて、高校まで車で通った。内緒で学校裏のコインパーキングに車を駐めて、授業が終わると校門を飛び出した。精算機に500円玉をねじ込んで、学ランのまま海までドライブした。カーステレオから流れるイージーリスニングを聴きながら「大人になった」と思っていた。こんな生活を卒業式の日まで続けていた。
 先日、近所の警察署で免許を更新した。ゴールド免許とは名ばかりで、あの日校門を飛び出して海へ走ったキラキラには到底及ばない。少しも勝てない。負けているのだ。パワーウィンドウを開けると潮風の匂いを思い出す。昨日のように。

御霊のように

 10日ぶりに外へ出てみるとそう長くは歩けなかった。家でサツマイモのようにじっと過ごしていたから、体力が落ちぶれてしまったのだ。朝の散歩は中断して、昼過ぎに再び自転車で出掛けた。
 京成線沿いで小規模な焚き火を3件ほど見かけた。浅草の蕎麦屋や日暮里の布屋も軒先で木を燃やしていた。7月13日東京の夕刻は、御霊を迎えるための目印を置く時間だった。この目印を迎え火と呼んで、都内各地では盆踊りが行われる。
 家に帰る頃にはもうくたくたで、自転車のペダルを踏むのさえ億劫だった。自宅付近のカーブミラーに自分が映った。車輪のダイナモ灯がヒト魂のようにフラフラ反射していたので、「帰ったよ」とそのミラーの前でブレーキをかけた。ペダルを漕ぐのをやめると鏡の向こうのダイナモ灯が光を失ったので、この御霊は宵の明りと共に消え去った。

未明過ぎ

午前4時くらいだったか、眠れずにベランダにぽつんと立っていた。これからどうしようかと考えていた。たばこを少し吸った。「少したばこを吸っているんだわ」と思った。夜の青も半ばを過ぎて、世界中が真っ赤になった。

今が全てだった

 会社を辞めた。
 社宅を今月中に空け渡さなければならず、ここ数日は荷造りに忙殺されている。一週間前は東京で研修をしていた。そこで会社を辞めたから、東京の寮を一夜にして去った。翌日には尼崎へ戻って、今は社宅を片付けながら大阪に通勤している。明日の出勤を終えたら社宅を去って、東京の実家へ戻る。それでやっと退職扱いになる。ほとんどジプシーだ。
 荷造りをする上で困ったことがある。自転車の処理だ。尼崎に越して最初に買ったものは、安物の自転車だった。尼崎から東京への送料を考えると、結局この安物はこちらで処分するしかない。でも引越しの直前まで手放したくないのだ。個人的に自転車は生活のベースだと思っているから。
 今日は自転車を売りに出そうと自転車で市内をウロウロしていた。帰りは徒歩だから、近場で売れないものかと近所を縫うように走った。結局売れそうな店が見つからず、夕方になった。
 夕陽が大阪環状線に沿って高架下に影をなしていた。その影を踏んだ時、引越代を引き出し忘れていたことに気付く。18時以降の引き出しには手数料がかかる。時刻は1730分を回っていた。自転車は売れていないし、周りにお金を引き出せる場所もない。俺は何をしていたんだろう。頭が全く動かなくなった。自転車を早く売らないと、それでお金を引き出さないと、どうすれば、いや、自転車は後で、でも明日は出勤だし、何とかしないと、銀行、リサイクルショップ、はやく、あ、お腹、すいた、東京、暑いな、うるさい、だれか、阪急だ、まぶしい、このまま。
 驚くべきことに、その瞬間俺は自転車ごと田んぼに落ちた。世界がひっくり返ったのかと思った。自転車が半分くらい泥に埋まった。俺も半分近く埋まった。稲も埋まっていた。夕陽が全てを照らしていた。その時「ああ、これはもう無理だな」と笑ってしまった。腕時計の泥を拭うと、1755分だった。あと5分の間はこうしていようと思った。その5分間に全てが凝縮されているような気がした。とても綺麗だった。愛おしかった。今が全てだ。家に帰ろう。シャワーを浴びよう。ご飯を食べよう。できたら文章を書こう。そう思った。

尼崎、2ヶ月目

初めてのひとり暮らし、環境や所感など


・木は良いものだ
新居のベランダには3メートル近い柿の木が植わっている。
木陰の揺れにあわせて頭をくわくわさせて、わざと目に陽があたるようにしている。
陽が目に入ると滲みて、泣いているようで燃えてしまいたいと言う。いつもだ。

・猫ちゃん
窓を開けておくと家に猫が入るようになった。
餌をやらないせいか長居しない。長居されたら俺も困ってしまう。
でも好きは好きで、毎日来てよねと思う。

・六甲で鳴る号砲がある
故郷には山が無かった。生活をする上で視界に入る山は特別な気がする。
空気の純粋な日は山が近い。山が近いと、周りの音が止んで号砲が聞こえる。
花火がドンと打ち上がって炸裂するまでの、あの時間のような。

・座ション主義
便器が汚れるのって苦手だ。俺は男だから勇ましく立ってしたいが、
飛び散ったのを始末する姿は女な気がする。
座ションは手頃なソリューションだ。俺は、真の男は座ると信じている。

・終わらない自分イジメ
これは特別なことではないけれど、ひとりだと自分を傷付けてしまう。
バレるのが嫌だからガワは可愛がっている。中身はスクラップで溢れそうだ。
いつか終わると愚痴って、アンビエントに散歩するのだ。