ウルトラマリン

 去年の夏、某所の海に入った。
 そこは透明な水の豊かな海で、岸は岩だらけであった。自分の他に人はおらず、俺は無鉄砲にシャツを脱いで水へ走り入った。ゴーグルごしに海底を見ながら回遊すると、海底は意外にも砂で落ち着いている。泳ぎ進むにつれて水深が非線形に増す感覚が、星のスウィングバイに似ていた。
 日差しが、水底にまだらな光線を描いていた。大学3年の夏、俺はトポロジーの講義を受けていたのだった。

「点と点の間を等距離に区切る垂直線に囲まれた領域は、こんな多角形を構成します。この多角形領域の集合を、ボロノイ図と言います」

 水底の光は、教師の言う図形そのものであった。
 水深が11mに達した時、俺はその図形に触れてみたいと思った(俺は目測で距離が分かる)。できる気がした。素潜りの経験は無い。自信があった。何しろ24歳の無職は、無責任な自信の成れ果てだから。
 漁師がそうするように、体をくの字に曲げて脚をバタつかせる。すんなりと深さ4m。これはいける。深さ7m、すこし怖い。深さ9m、光が薄い。深さ10m、無音。深さ11m、その図に触れた。怖い。ひとりぼっちだ。肺が痛い。帰らなきゃ。
 水底の図を蹴って水面を目指した時、上を見て驚いた。俺が潜水した軌跡を煙が立ち込めていた。その煙は赤く、水の青で弱った光を火のように透かした。炎上しているようだった。怖くはなかった。あんまり見とれたので口から空気が漏れた。宝物でも求めるように、俺は漏れた空気を追って水面に顔を出した。
 煙の正体は未だに分からない。