燃えるのが早い、歩くのが遅い

 19歳の頃だったか、新宿東口の居酒屋で止めどなく泣いたことがある。何がトリガーだったのかは今もわからないが、撃鉄が落ちるようにそうなってしまった。そんな自分を連れ去ってくれたT君を、俺は誇りに思っている節がある。その頃のT君は歳が上だったからTさんで、でも留年したからT君になった。T君は泣きっ面の俺を尻目に煙草の自販機に立って、通りすがりの人に声をかけてラッキーストライクを奢ってもらっていた。歩くのが遅い俺の袖を引くように、T君は賑やかで寂しいバーに俺を案内してくれた。俺は無言ですんすんと鼻をすすり、T君は「そういうこともあるよ」と発電所のように煙草を吸った。俺は24歳になったが、T君には今も袖を引いてもらっている。そういうふうに地球は回り続けている。

ツーリングIKEAの魅力

 バイクで行くIKEA。これが最高なのです。

 IKEAというお店は皆さんもご存知かと思います。昨今の新都心開発では、必ずと言ってよいほど議題に挙がるのがこの店名。思考停止したシティコンサルが「街独自の発展が欲しい。まずこの更地にコストコIKEAを置いて...」とシムシティ感覚で会議を行う様子が、盗聴器なしでも窺えます。
 IKEAは主に北欧家具を中心に扱う世界最大の家具量販店です。注目すべき点は、何と言っても併設されたたフードコートにあります。物価がイカれているのです。ホットドックが80円。ドリンクバーが100円。意識の高そうなサーモンサラダが数百円(興味が無いので覚えてない)。
 自分は家具には全く興味がないので、IKEAには入ったことすらありませんでした。隣接するコストコで食材をカートいっぱいに買い込み、これまた物価の壊れたフードコートでチルするのが好きでした。そんな自分がなぜ今更「IKEA最高」と咆哮しているのか。その理由を語りたい。

 きっかけはIKEAのトレードマークでもある青いシャカシャカバッグの購入依頼でした。母親に「逆におしゃれだから買ってきて欲しい」と頼まれました。ニート性分の自分に拒否権などありません。「たまにはツーリングもいいか」と心をハックし、愛車のスーパーカブ(蕎麦屋バイク)をキックして20km離れたIKEAを目指します。
 時は連休の最盛期。あのIKEAが繁盛していない訳がありません。「駐輪場探すのやだなー」と思いつつ、パーキングエリアへ。ここで1つめの驚きが。駐輪場がガラ空きなのです。それもそのはず、IKEAに足を運ぶ方々の目的は、家具を買うとこなのです。バイクで来る人なんてごく僅かなのでしょう(ちなみに、コストコの駐輪場は鬼小さい)。渋滞する車を尻目に意気揚々とエントランスへ向かいます。
 ここでとある不安にかられます。「会員カード持ってないぞ!」。コストコなどでは年会費5000円の会員カードを所持して入場し、激安フードの恩恵にありつけます。きっとIKEAにもそういったシステムがあるはずだと考えました。鼻の頭に汗を滲ませながらカウンターの方に尋ねると「そんなものはない」と、三国志関羽ばりに回答を頂きました。IKEAは会員制ではないのです。すごい!じゃあなんであんなフードコート安いの?これが2つ目の驚きポイント。
 さて、例によって世界化されたコンベア式のレジ横に、お目当の青いバッグがあります。それを100円で購入。さっそく関心どころのフードコートへ。話には聞いていましたが、IKEAのホットドッグはコストコのものと比べてとても小さいです。ドリンクバーと合わせてもコスパが悪い。具体的に計算してみよう。
コストコ:ホットドッグ、ドリンクバーのセットで180円
IKEA:ホットドッグ80円+ドリンクバー100円=180円
同じ値段でより大きなホットドッグを食べられるなら、普通はコストコに行きますよね(会員費の話は一旦置いといて)。でもドリンクバーの質が違ったらどうでしょうか?
 なんとIKEAのドリンクバーには、コーヒーメーカーがあるのです。しかもプレッソ式の抽出で、ラテが超うまい。炭酸系飲料もフルーツソーダ(ベリー)とか何かお洒落でうまい。一方でコストコのドリンクバーは、ペプシマウンテンデューなどのバカ飲料が蔓延しています。そしてコーヒーでシメようとすると、別途で100円を支払わなければならないのです。その点IKEAは、ちょっとホットドッグが小さいだけでドリンクバーは充実。会員費もなし。IKEAはフードコートの王だった。
 スタンドの席でソーダをごくり。ホットドックをプチプチ。コーヒーをお代わり。エントランスを出て喫煙所へ。安煙草とお代わりしたラテでチル。カップを持つ手が熱いのでバイクグローブをはめて耐熱。尿意。ところでこのIKEA、喫煙所とお手洗いと駐輪場が近接している。非の打ち所がどこにもない。
 用事を終えた自分は「IKEA最高、IKEA最高、IKEA最高」と思いながら、バイクをキックして家路につくのでした。(青いバッグは喫煙所の隅っこに置き忘れた)

※この記事は主に、さいたま新都心について書いてあります。

午前10時の日没

 無職になって3ヶ月が経った。半年前、俺は給料の高い会社に新卒で入社して、初ボーナスを強奪して東京に帰った。今はそれを切り崩して生活をしているものだから、大阪での日々は破滅のための準備期間だったのかとニヤニヤしてしまう。今のところ働く気は無いので「破滅は避けるべし、労働は善しとせず」といった状況に、頭が痛くなる。今でも大阪の天気予報を気にかけている。
 無職になって得たものは、保険や年金への憎しみと、病気がちで増長する内向性と、腐るほどの時間だった。腐るほどの時間の大半はラリっている。好きでラリっているわけではなく、不眠による記憶障害と、投薬による意識障害が日々デッドッヒートしているのだ。その熱の中で俺は、寝袋に入ってスケボーをしたり、引き戸を押して号泣したり、包丁を持って「行くぞ」と言ったり、歯を5回磨いたり、無線機をいじって感電したり、黒人に喧嘩を売ったり、肉体の悪魔を朗読したり、足でジェンガをやったりしている。
 来るべき破滅のために、俺は死ぬまでダンスを続けるつもりだ。とびきり面白いのがいい。逆さメガネで脳を騙くらかして、天に昇るように落ち続けたい。眠れない夜を越え、ベランダの陽が燦々と綺麗だ。ベッドにくたばると時計の針は109分で「止まってしまえよ」とヘラヘラ笑う。日没が近いような気がして、曖昧な眠気を少しつついてみたら、意識はどこまでも赤く落ちていった。

フリッパーは今夜も

 ビデオゲームをほとんどやったことがない。小学生の頃はそれのせいで交友に苦労したこともあったが、今は何とも思わない。というのは嘘で、アーケードゲーム黄金期に馴染めなかった劣等感は、やはり大きかった。ティーンを過ぎた現在でも、ゲームは人のプレイを横から見ているだけである。それだけでも楽しいのだから、これでいいのだと納得している。
 こんな俺でも、一度だけ狂ったようにゲームセンターへ通った時期がある。2015年、俺は神田タイトーにあるジュラシックパークピンボールに夢中だった。

「まっすぐ歩けないよ」
「散歩はよそうか」
「だったら、車」
危険運転だ」
「駅前のタイトーにさ、湾岸ミッドナイトが置いてあるんだよね」

 神田のバーで、友人と大酒を飲んだ帰りのことだった。友人の提案は悪くなかった。終電までは時間があったから、ゲーセンで酔いを覚まそうということだった。俺はプラットホーム上の人間スプリンクラーを、プリミティブなテロリストだと考えている。その点タイトーは、UFOキャッチャーの景品袋にでも吐いてしまえば無害だと思っていた。夏も終わりかけのミルクのような風が、神田駅東口のガード下を寄る辺もなく往来していた。
 タイトーステーションではネルシャツを着たナードたちが、無言で筐体のボタンを連打していた。友人は景品袋を片手にシフトレバーを引き、ハンドルをあちこちに切っていた。カーブの度に事故を起こす、酷いプレイだった。対戦相手も同じ大学生だったらしく、随分アツくなっているようだった。同族嫌悪。俺は自販機でペプシを買い「クールアズコークだよ」と言って友人を冷やかした。
 ふと周囲を見渡すと、不自然にうら寂しいレンジが目にとまる。ピンボールコーナー。繁華な店内のそこだけ照明が届かず、深海の蝋燭みたいに筐体が稼働していた。俺は感傷癖の強い人間だから、そのレンジに強く惹かれた。
 筐体はスーパーマリオ、アダムスファミリー、ジュラシックパークの3台のみだった。スーパーマリオは幼児向けの小さなマシン。アダムスファミリーとジュラシックパークは、全長1.5mほどの大きなマシン。この2台は構造が似ていて、おそらく同じメーカーかと思われた(※)。3台ともプレイしてみたが、ジュラシックパークにはピンとくるものがあった。ちょうど両替機に紙幣を入れた時、友人が「胃が馬鹿になった」と言って、パンパンになった景品袋を掲げた。大笑いしてそれをトイレに流すと、俺たちは店を出て「お開きにしよう」と手を振り合った。家に帰っても、そのピンボール台が頭から離れなかったのだ。2015年9月、俺はピンボールのために夜も眠れなかった。
 翌日、大学を終えるや御茶ノ水から神田まで歩いて、タイトーステーションに立ち寄った。ジュラシックパークピンボールが昨夜と変わらずに稼働していた。俺は5千円札をすべて100円玉に両替して、取り憑かれるようにフリッパーボタンを押した。
 ジュラシックパークの優れた点は、何と言っても3つのフリッパーと可愛らしい恐竜のギミックにあった。サードフリッパーはステージ右上に位置し、下部のフリッパーボタンと連動している。サードフリッパーでボールをうまく弾くと、ステージ左上の浅い窪みにホールインする。窪みにはセンサーが付いていて、ボールを検知すると盤上の恐竜が首を傾け、そのボールをパクリと咥える。そのまま恐竜は首を持ち上げ「カチャン、カチャン」と咀嚼した後に、ボールを飲み込む。すると、赤色LEDのチープなディスプレイに"TRI-BALL"と表示され、射出口から鉄球が3つ飛び出す。ステージはお祭り騒ぎだ。スリングショットがボールを弾き、ジェットバンパーの間隙でダンスする。フリッパーで打ったボールが別のボールと衝突し、一方はレーンを高速で走る、もう一方はキッカーに吹っ飛ばされる。スコアはミリオン単位で跳ね上がった。切ないほど刺激的だった。
 それから一ヶ月間、俺はほぼ毎日神田に通った。都内でジュラシックパークピンボールが置いてある店は、神田のタイトーだけだった。湯水のように硬貨を投入し、プレイごとに様々なトリックを学んだ。デフレクトパス、ストップショット、フリッパーバウンス、ホールド&ショット、リターンレーン。最初は1億点だったスコアも、2週間目には5億点を超えるようになった。しかしそれ以降、スコアは伸び悩んだ。ハイスコアである13億点を突破したら、ピンボールを辞めるつもりだった。
 ピンボールには、必ずボールを損なうケースが2つある。1つ目は、ボールがステージのど真ん中を垂直に落ちるパターンだ。フリッパーを最大に開いても、その間隙はボール径に及ばない。だからこの場合、フリッパーを開き切ってもボールに届かず、フォールアウトする。2つ目は、ステージ左右に設置されたアウトレーンにボールが落ちるパターンだ。これはもう、否応なしにアウトである。プレイ3週間目に気付いたことは、ボール軌道の確率分布的に、ハイスコアの突破は不可能だということだった。何か確率を超えた技がない限り、絶対にボールは落ちる。プレイ4週目、死人のような目でボールを弾く俺の背後に、初めての「待ち人」が現れる。
 その男は大柄の中年で、ジムビームと硬貨だけを持ってスコアボードを凝視していた。俺が5億点でゲームセットして台を譲ると「どうも」と言ってプランジャーを握った。他人のプレイを見るのは初めてだった。男は、3億点までは俺と同じゲームをしていた。4億点を超える時、男が行動を起こした。ボールがアウトレーンに落ちる時だった。その瞬間、男は強靭な腰と腕で「かくん」と筐体を揺らしたのである。その揺れでわずかに軌道を変えたボールは、アウトレーンのエッジに衝突し、フォールアウトを逃れた。俺は感動を通り越した不思議な失望を感じた。けんもほろろ、完全なる畜生だと思った。男のプレイスキルとプレイスタンスが、ファックそのものであった。その後も男はマシンとのファックに勤しみ、スコアはノーミスで10億点を突破したが、もはやポルノシネマを見ている心地だった。
 ハイスコア更新の瞬間を見ること無く、俺はタイトーを飛び出した。悔しかったのだろうか。違う。ポルノが嫌いだったか。そうじゃない。ピンボールに絶望したのか。少し違う。つまるところ「時代が違う」と感じたのだ。俺の感傷は結局、ピンボールを単なる昔の装置として2015年より愛を込めていた。装置があれば現代でも可能だと、強く信じていた。装置の舞台が悪かった。2015年のゲームセンターでは、灰皿が飛んだり、台パンをしたり、カツアゲをしたり、ジョイスティックのボールをパクったり、順番待ちのコインを並べたり、掲示板に落書きをしたりしないのだ。平和な時代の、平和な場所となりつつある。そんな舞台でマシンとファックしても、観客は誰もいないのだ。そんなところに、俺は立っていたのだ。後に知ったことだが、男のプレイはその昔「ナッシング」と呼ばれ黙認されたトリックだった。現代では実に皮肉の効いたジョークだ。感傷では救えないものがある。ピンボールはその一例だ。そう思った。だから店を飛び出した。永遠のゲームセット。同年10月のことだった。
 タイトーを出て御茶ノ水へ戻り、脚が他人のものと感じるまで神田川を西へ歩いた。
 面影橋のあたりまで来ていた。手近にあった自販機でコーラを買い、電話ボックスにもたれかかって、ぐびぐびとそれを飲んだ。「ファック、ファック」と口遊んでみる。嘘みたいに笑いが込み上げてきた。初秋も過ぎた夜が妙に痛々しく、頭はキュウリのように冴えていた。

 

※ 調べたところ、この2台は別のメーカー品だった。アダムスファミリーは米バリー社が92年に発表した悲劇の名機である。製造台数は業界No.1で、その優れたゲームバランスとギミックから「近代ピンボールの金字塔」と呼ばれた。ジュラシックパークは、日本データイースト社がその名機を元に製造した93年製の筐体である。92年以降のピンボール台は、軒並み「アダムスファミリーの劣化コピー版」と評された。悲しいことに、ここからバリー社を含む業界全体の迷走が始まり、ピンボールは衰退していく。バリー社は、自社が製造したマシンによって破滅したのであった。

スカーレット

 都内の喫茶店で働いていた頃、モノ覚えの悪い俺に良くしてくれた先輩がいた。Aさん。とても博識だが、怒りやすく、その対比が絶妙に人を惹きつける特殊な方だった。Aさんは極道の息子だったが、どうやら後を継ぐ気は無いらしく、学生の身で起業までしていた。

「まだ会社が赤字だから、ここで働いてるわけよ」

 とAさん。

「俺も就活近いんで、雇って下さいよ」
「月島ちゃんは仕事できねぇから無理だな」

 そんなことを、半畳に満たない休憩室で、タバコの煙をぶつけ合いながら話していた。不意に扉がノックされる。

「大丈夫だよ」

 Aさんがそう言うと、同じくアルバイトのKさんが扉を開けて入ってきた。

「お疲れ様です」
「お疲れ。Kさん上がり?」
「はい。着替えるので、あっち向いててもらえますか」

 Kさんはそう言いながら、すでに制服の第二ボタンまではずしていた。この喫茶店では、半畳以下の休憩室が更衣室も兼ねていたいた。女性のKさんが着替えるためには、通常男どもは外へ出なければならないが、Kさんは見られていないという体裁があればオッケーな人だった。物騒な話である。背後で衣摺れの生っぽい音がする。

「月島ちゃん、今日何日だ?」
「忘れました」
「カレンダーは俺らの後ろにあるわけだ」
「ええ」
「カレンダーは振り向かないと確認できないよな」
「おーん」
「仕方ないと思わないか」
「やめたほうがいいですよ」

 そうしてAさんは、よくKさんにちょっかいを出した。それが原因でしばしば店長が怒った。どさくさ紛れにAさんもキレた。Kさんはまんざらでもなさそうだったが、時には激昂した。それでも店が回っていたのは、仕事というホメオスタシスの賜物だと思う。実に危険な職場だった。
 俺が仕事を覚えて店締めを担当するようになった頃、閉店後の休憩室でAさんが目を輝かせて俺に尋ねた。

「それ、月島ちゃんが巻いたの?」
「そうですよ」

 その頃の俺はハンドロールのタバコが気に入っていて、家で巻いてはポッケに入れていた。それを吸っている時だった。

「すごいな。そこまで綺麗に巻ける奴、初めて見たわ」
「そうですか。ありがとうございます」
「それ以外もやるの?」

 それ以外とは?と、少し嫌な予感がした。

「ああ、ピースも好きですよ」

 そう答えると、Aさんの目つきは鋭くなった。

「違うよ、クサ巻くのかって訊いてんだよ」

 嫌な予感が的中した。Aさんの私生活の話を聞く上で予想はしていたが、彼はプッシャーを始めたようだった。いよいよそれを職場に持ち込んできたのだ。

「巻けないっすよ。別に反対じゃないですが、それはちょっと、なんつーか、チキってるんで、一応ダメだし、やらない主義というか」

 まるで未成年が飲酒を断る時のセリフだ。要するにAさんは、赤信号くらい一緒に渡ろうぜと言っているのだ。俺はその一歩を踏み出さない奴だった。

「そう?まあクソネタは押さないから、Kさんや店長も買ってくれてるよ。革靴のつま先に入ってるけど、どうだろう?」

 冷や汗が出た。レスポンスの最適解が分からなかった。何より驚いたのは、自分以外の人がもう踏み越えていることだった。ブラフだ。そう思った。プッシャーは仲間意識を餌にして、新規客を釣るのだ。Aさんはケタケタ笑いながら言った。

「Kさん下手でさ、巻けないから市販のほじって詰めてんの。まあ、賢いよ」

 見るな。しかし目は動いてしまう。灰皿の上にセーラムの吸い殻が置いてあった。つい目を凝らしてしまう。もみ消してどす黒くなった火元から、黄緑色のカケラがはみ出していた。吸口にはKさんの口紅のスカーレットがついていた。なんらの希望もなかった。

「俺には理解があります。別にシャブ売ろうってんじゃないし。でも、今やったら緊張でバッドになるでしょう?アムスで会いましょう」

 なんとかやり過ごした。Aさんは普通の態度を装っていたが、明らかにキレていた。店の看板のコンセントを蹴飛ばして抜いていた。ブレーカーのスイッチを殴って切っていた。防火扉を力ずくで締めて「あー」と絶叫していた。
 俺はそれきり喫茶店には行かなかった。
 Aさんは博識だったが、パニクってたのだと思う。立ち行かない自分の会社、頼れない両親、守るべき人を守る大義、それ以外の人を淘汰する勇気、やめられないお酒、終わらない自虐、いくつも、いくつも。けれど、こんなのってないだろと思った。バグった頭だからこそ、人はパンクスを忘れてはならないのだ。
 今でもあの喫茶店の最寄り駅を通ると、心臓が高鳴る。たまに、Aさんが俺の住所を突き止めて「てめぇタレ込んだな」と殺しにくる夢を見る。もう5年も前のことなのに。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件等には、一切関係ありません。

残るもの

もう何年も前のことだけど、火葬場で祖母の遺骨を箸でつまんだ時に母が「こんなに小さくなっちゃった」と言って、俺はポロポロと泣いた。これで全部なのかよ、と箸を持つ手が震えて止まなかった。